押し入った房の中では数人の囚人たちが、押し殺した恫喝と笑い声を上げながら一点を取り囲んでいた。中心からくぐもった呻き声がして、その手足がばたつくたびに囚人たちもざわめく。それらと合わせて小さく蹴ったり殴ったりする動作が、房の中の空気を不穏に揺らしていた。
「―――オイ」
 声をかけると、そこで初めて囚人たちは振り返る。それでそいつらが取り囲んでいる中心が、見えた。
 殴られて憔悴した蜂蜜色の瞳が、突然の小休止に驚いて瞬く。服を剥がされてむき出しになった腿が切れて、痛々しく出血していた。
 俺の姿を認めて、ジャンは―――暴行されてたってのに折れない、ぎろりとした眼光でこちらを睨む。まあ俺は裏切ったってことになってるからな。
 気にせず、俺は囚人に訊ねた。
「何してんだテメエら」
「あ? 見ての通りだぜ。いい肉便器が見つかったからなあ。もういい加減、あの看守にも飽きてきちまって」
 肩に上着を引っ掛けただけのジャンの腕を捻り上げながら、ひとりが答える。こいつら頭に脳味噌の代わりに精液詰まってっから、放っとくと何するかわかんねえ。
 うんざりしながら、俺は適当な理屈を探した。
「やめとけ。今ここに残ってる最後のCR:5幹部だ。下手に殺しでもしたらデイバンのやつらがゴネ出すかもしんねーぞ」
「へっ、そんなヘマしねえよ。なんだあ? 混ぜて欲しいのかあんた」
 なんでそうなるんだ。バカなのか。死ぬのか。
「元々はお仲間だもんな。ああ、いい機会じゃねえか。あんた上のやつらに信用されてねえんだろ。こいつ半殺しにしたら認めてもらえるかもしれんぜ」
「関係ねえよ。いいだろ、もう。それよりやってもらいてえことが……」
「んだよツマンネエなあ。まさか情でも残ってんじゃねえだろうな」
「違えよ、だから―――」
「ああ、わかったぜえ。もしかしてあんた、スゲー早漏で人前じゃとてもぐぶおっ!」
 皆まで言わずに男の体は宙を舞った。他のやつらがぽかんと口をあけてそれを見ている。敵意剥き出しだったジャンすら、呆然と男の描いた放物線を追っていた。
 この計り知れない怒りは何だ。薄らぼんやりとした記憶の中にその答えがあるような気はしたが、むかつくのではっきり思い出すのはやめた。
 代わりに、顔色を変えた男たちに向き直る。
「てめえ何しやが―――ごふ!」
「この野郎、やっぱりお前まだ、CR:5の―――へひイ!」
「た、助け―――もひゅん!」
 ものの数十秒経つころには―――
 房の中に立っているのは、俺だけになっていた。助けを呼ばれると面倒なので、逃げようとするやつも捕まえてしばき倒して、さっきまで房の中で血走った目をしてた囚人どもは全員床に突っ伏している。
 その半屍体の中で、ジャンは座り込んだまま唖然としていた。そりゃそうだ、裏切ったはずの俺がいきなり―――っていうか服着ろよ! そんなだから襲われんだろーが!
「イヴァン……」
「な! んだよ!」
「……なんでだ?」
 端的な疑問を、戸惑った目線と一緒に下から向けられて―――
 俺はくるりと身を翻すと、猛然と房の中から飛び出した。その後ろから、ジャンの声が追いかけてくる。
「お前、裏切ったんじゃなかったのかよ……!?」
 あああ知るか!
 俺がお前らのこと、裏切るわけねえじゃねーか!!!



 これはきっと夢だ。俺の願望が見せた夢。
 そうでなければ、これがあの世というやつなのだろうか。俺は良い行いなどひとつもしてこなかったから、行くとしたら地獄だ。だが今、この状況は……地獄と言うには、あまりにも可能性に満ちていた。
 だとしたら、これは天国。最後の最後に唯一成し遂げられた―――あの人を助けられたことに対する、行き過ぎた報い。
 しかし天国なら、もっと安穏としていて虚ろに美しい場所のような気がする。痛みと達成感の中、真っ暗になる視界が再び回復したとき、俺の目が最初に映したのは、見覚えのある貧弱そうな鉄格子だった。
 たった数日前のことなのに、大昔のことのように感じる刑務所の風景。灰色の建物を抜けるような青の秋空が覆う運動場で。
 俺は今一度、太陽と再会した。